この月輪寺公式ブログの中で、これから不定期連載で弘法大師空海の名言について書いていきたいと思います。
最初のテーマは、『虚往実帰』というお言葉です。
非常に有名な言葉であるため、ご存じの方も多いかも知れませんが、30代前半の空海を知る上で、とても大切で、含蓄のある言葉ですので、二回に分けて書きたいと思います。
『虚往実帰(きょおうじっき)』とは、『むなしく往きて、満ちて帰る』と訓読します。
『行きは不安で虚しい気持ちであったが、帰りは満ち足りている』という意味で、『師から無形の感化を受ける例え』を表しています。
空海にとっての師とは、中国の唐で出逢った恵果和尚(けいかかしょう)を指します。
804年(延暦23年)31歳の空海を乗せた遣唐使船は難波港を出発、約2か月後、九州の五島列島に再集結し、荒波にのまれながらも、さらにその1か月後、唐にようやく辿り着きました。
四隻の船の内、空海と最澄を乗せた第一船と第二船のみが辿り着き、第三船は吹き戻され、第四船は行方不明となりました。
密教というと空海が平安時代に持ち帰ったものと考えられがちですが、奈良時代から、古密教と呼ばれる、体系化される前の密教が徐々に入ってきていました。
若い日の空海も密教経典や密教の修法に触れたことが一つの契機となって、生きて戻れる保証のない危険な航海をしてまで、入唐したいと決意されました。
しかし、空海は、入唐前の段階では、どこの誰に会えばいいのか皆目検討もつきませんでした。
「密教」という言葉すら知らなかったのではないかとも言われています(注1)。
入唐後、先に留学していた官僧からの情報もあり、青龍寺の恵果和尚のもとを訪れることになりますが、後に空海は、この師との出逢いを、人智を超えた存在によってなされた不可思議な法縁と解したようです(注2)
正統な密教の相承者であった恵果和尚は、空海との出逢いをとても喜び、千人もの弟子を差し置いて、空海に密教の全てを授けました。
その後、4か月経たないうちに、恵果和尚は、病状が悪化し、逝去されました。
このような密教が空海へと受け継がれた一連の過程を知るとき、誰しもが空海が感じたであろう不思議な法縁を、少し感じ取れるような気がします。
『日本から来るときは不安が付きまとう旅でありましたが、恵果和尚との出逢いのおかげで、密教を余すことなく受法でき、満ち足りた気持ちで我が国に帰ります。』
『虚往実帰』には、このような密教の受法に関する、空海と恵果和尚の不思議な巡り合わせや、恵果和尚の人柄に対する空海の思いなどが込められていると言えるでしょう。
ここまで空海の入唐の旅の過程を見ながら、『虚往実帰』の意味を考えてきました。
後編では、『虚往実帰』の典故について見ていきたいと思います。
なお、写真は、住職の書です。
副住職 樫本叡学
(注1)武内孝善『空海はいかにして空海となったか』角川選書
(注2)高木訷元『空海 生涯とその周辺』吉川弘文館