雨寶山月輪寺縁起

月輪寺は,創建年は不詳ですが,奈良時代の僧・行基(ぎょうき)菩薩が諸国行脚中に,月輪を礼拝するお堂を造ったことが起源とされています。(注1)

創建時は,蓑山(みのやま,現在の堺市中区見野山)にありましたが,その後荒廃し,建保年間(1213年-1218年)に再興されました。
しかし,江戸初期に火災に遭い,堂宇を焼失,元禄年間に現在の場所に移転しました。寺院が蓑山にあった証として,什宝である喚鐘や鰐口には,「蓑山」という昔の山号が彫られています。

堺や和泉では南北朝のころから聖による遊行が盛んで,江戸時代初頭になると,月輪寺を含め,近隣の興源寺,光明寺,豊西寺,観音寺,観音院,増福寺(廃寺),倉谷寺(廃寺),極楽寺(廃寺)といった陶器の九か寺が「村々聖堂中」と呼ばれ、寄合いや信仰の場となっていました。(注2)

また,当寺は,江戸時代には寺子屋を開き,お堂の中では読み書きそろばんが教えられていました。
その後,明治5年(1872年)に国民皆学・実学主義を掲げた学制が発布されたことから,寺子屋があった当寺の境内に和泉国第三区郷学校が開校されました。
現在の東陶器小学校や西陶器小学校は,当寺で開かれた寺子屋が起源となっています。

(注1)創建に関する一次史料は,現在散逸していますが,創建当初の当寺の跡地(蓑山寺跡)から「蓑山月輪寺」と記された梵鐘や奈良時代の軒平瓦(唐草文と三鈷文)などが出土しています(陶器郷土資料館(編), 1987,『須恵器概説ー陶邑窯を中心としてー』,p.77)。また,宝永二年の和泉国大鳥郡之内寺社帳に,当寺の創建に関して「行基之開闢而行基入寺之事」と記載されています(堺市役所『堺市史続編第4巻』p.1342)。陶器地区は,行基の出生地に近く,また行基が改修した狭山池にも近いことから,行基が率いる知識集団(行基集団)が創建に関わっていたのかもしれません。
(注2)堺市役所『堺市史続編第1巻』pp.815-816.

下の写真は,昭和30年頃の当寺周辺

昭和30年頃の月輪寺周辺