空海の名言『虚往実帰』(後編)(10月16日)

『虚往実帰』(樫本智照)

この月輪寺公式ブログで、不定期連載している『空海の名言』。

今回のテーマは、『虚往実帰』の後編です。

前編では、『虚往実帰』という言葉が持つ歴史について述べました。

後編では、「典故(てんこ)」を踏まえて、書いていきたいと思います。

 

1.典故とは?

「典故」とは、「文章を書く際のよりどころとなる古典の文句」のことです。
簡単に言うと、「引用」のことです。

例えば、私が、何かを成し遂げた時に、「初めて自分で自分をほめたいと思います。」と申し上げると、皆さんは瞬時に、アトランタ五輪の女子マラソンで銅メダルを獲った有森裕子選手のことを連想されると思います。

詳しい方は、有森選手が一大会前のバルセロナ五輪以降、選手として大切な足の手術をしたことや、スランプに陥ったことなど、決して順風満帆ではなかった2大会連続メダルまでの道のりを連想されるかもしれません。

この例えは古典ではないですが、このように先達の古典の文句を引用することを、「典故を踏む」と言います。

この典故で大切なのは、引用元の古典の背景と、当の文章の流れの重なりです。
すなわち、先ほどの例えで申し上げると、有森さんの苦悩、努力、歓喜を連想して、当の文章と重ねて感じ取ることが大切になります。

儒学の重要古典をマスターしていた弘法大師空海の文章には、このような典故が多用されています。

 

2.『荘子』の中の『虚往実帰』

空海が恵果和尚に関して述べた『虚往実帰』というお言葉にも、引用元があります。(注1)

引用元は『荘子(徳充符)』で、王駘(おうたい)という人についての物語です。(注2)
物語は、以下のように展開します。

中国の魯(ろ)という国には、王駘という人がいました。
その人は、足を切られた受刑者でしたが、その人に教えを請う人が絶えません。

孔子の弟子が、孔子に対して、王駘のことを尋ねます。
すると孔子は「自分も将来、王駘を先生として教えを請いたいのだ。」と打ち明けました。
また、孔子は、王駘の心のありようについて、静かに澄んだ水面のようであり、永遠に無くならない絶対自由の世界を心の中に持っていると、その徳の高さを讃美します。
そして、「そのような聖人であるからこそ、その人から学ぼうと、方々から人々が集まり、正しく導かれて帰ってゆくのです。」と語ります。(注3)

このような『荘子(徳充符)』の王駘の物語の中で、『虚往実帰』という言葉が用いられています。(注2)

 

3.典故から読み取れる『虚往実帰』の意味

つまり、『荘子(徳充符)』の中の『虚往実帰』には、「行きは不安で虚しい気持ちであったが、帰りは満ち足りている」という意味以外に、

①儒家の始祖の孔子ですら教えを請いたいと思うほどの聖人に対して用いられた言葉であること

②その聖人である王駘は、真に道を体得し、静かに澄んだ水面のような心をしていたこと

という二つの意味合いが含まれていることが分かります。

弘法大師空海は、恵果和尚を王駘と重ね、王駘に教えを請おうと方々から集まった人々に自分自身を重ね、この『虚往実帰』という言葉を用いました。

恵果和尚というとてつもなく偉大な聖人に出逢い、その方の静かに澄んだ水面のような心に、正しく導かれて満ちて帰国します。

『虚往実帰』という四文字には、恵果和尚という真に仏道を体得した人の心のありようや、その偉大さをも表現されていると言えるでしょう。

典故というのは、書き手が四文字で記した事柄を、読み手も四文字で読み取らなければならないものです。
そのため、典故を言葉を尽くして解説することは、野暮なことかもしれません。

しかし、典故に遡ろうとすることで、お大師さんのお気持ちやお考えに、より近づけるようにも感じます。

『虚往実帰』は、たった四文字の言葉です。
しかし、前編、後編通じて、ご説明してきたように、その言葉には、密教受法前後の空海の思いの移ろい、恵果和尚との不思議な巡り合わせやそのことに対する感謝、恵果和尚の心のあり様や偉大さなど、多くの意味が含まれています。

 

4.『虚往実帰』というお言葉に思うこと

さて、前編では史実に基づいて、後編では典故に基づいて、『虚往実帰』の意味を見てきました。

ここから述べることは、私が『虚往実帰』というお言葉に感じたことです。

明確な論拠があるわけではありませんが、思うところを少し述べたと思います。

私たちは、ついつい『実帰(満足して帰る)』ことに重きを置きがちです。
仕事にしても、恋愛にしても、子育てにしても、老後や人生にしても、『満ちている』事実にばかり目を奪われ、それ以外のところには目を背けがちです。
これまでの説明も無意識的に、『実帰』を強調した内容になっているように感じます。

しかし、『虚往(虚しく往く)』という言葉が付け加わり、四文字の言葉になっていることに着目しなくてはいけません。

『虚』は、「虚しい」、「空っぽの心」、「何も分からない状態」といった意味です。

お大師さんも、密教を受法して『実ちて帰る』までに、『虚しく往く』という不安で苦しい危険な道のりがありました。

『虚しく往く』道のりがあるからこそ、その先に不思議な法縁に恵まれ、『実ちて帰る』結果が生じる。

そのような励ましとも戒めとも取れるような意味も『虚往実帰』には含まれているような気がしてなりません。

みなさんは、『虚往実帰』という四文字に、どのような思いを映し出しているのでしょう。

 

ここまで、空海の名言『虚往実帰』を二回にわたって、ご説明いたしました。

また、このような形で、空海の名言について、住職の書とともに、この月輪寺公式ブログで不定期連載で書いていきたいと思います。

下の写真は、住職の色紙絵です。描かれているのは、今、境内で咲いている貴船菊です。

 

副住職 樫本叡学

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(注1)『荘子(徳充符)』では、「虚往実帰」を「虚而往、実而帰」と記されています。「而(しこうして)」は、「~して」という接続詞なので、意味は同じです。

(注2)「徳充符」とは、「徳に充ちたしるし」という意味で、「真に道を体得した人が、その高い心に相応しいものとして有する姿」を指すようです。(阿部吉雄『荘子』明徳出版社)

(注3)「明鏡止水」という言葉も、『荘子(徳充符)』で初めて用いられた、王駘の心のありようを表現した言葉です。