この月輪寺公式ブログで、不定期連載している『空海の名言』。
前回は、『虚往実帰(きょおうじっき)』という言葉の背景にある歴史と典故(引用)を、前編と後編に分けて書きました。
『虚往実帰』は、空海が正式に出家後、唐で密教を受法したことに関わる言葉でした。
今回は、『性薫(しょうくん)我を勧めて還源(げんげん)を思いとす。経路(けいろ)未だ知らず 岐(ちまた)に臨んで幾たびか泣く。』という言葉を取り上げたいと思います。
1 暗中模索した若き日の空海とは?
今回の言葉は、出家前の空海の苦悩を表すものです。より正確に言うと、晩年に空海が若き日の自分を振り返り、唐に渡る前の状況や心情を述べたものです。
前回の『虚往実帰』との関連で言うと、『虚往』の二字に込められた、暗中模索した時期の心情を振り返った言葉と言えるでしょう。
弘法大師空海は、誰が見てもスーパーマンのような人だと思います。私たちから見ると、弘法大師空海は偉大すぎて、苦悩と無縁だったようにも感じてしまいます。
とりわけ入定後、超人離れした伝説なども付加され、仏・僧としての弘法大師は強調され、人として空海は、より一層見えにくくなりました。
このような中で、今回取り上げる言葉は、空海の若き日の苦悩に触れる、数少ない言葉の一つだと言えるでしょう。
もちろん、後世の人が、ましてや偉人の苦悩に近づくには、いろいろな意味で限界があるでしょう。
しかし、今回取り上げる言葉や、その言葉の背景にある歴史的事実から、入唐前に空海が歩んだ暗中模索の日々を知ろうと努めることは、空海の名言を今後知ってゆく上で避けては通れないことのように感じます。
そのため、今回(そして次回も)は、暗中模索した若き日の空海に迫りたいと思います。
2 『性薫我を勧めて還源を思いとす。経路未だ知らず。岐に臨んで幾たびか泣く。』
前置きが長くなってしまいました。
では、今回の名言を見ていきたいと思います。
先に、読み方や意味などを確認します。
『性薫(しょうくん)我を勧めて還源(げんげん)を思いとす。経路(けいろ)未だ知らず 岐(ちまた)に臨んで幾たびか泣く。』(注1)
『性薫(しょうくん)』とは、『誰にでも備わっている本来の仏こころ』を指し、
『還源(げんげん)』とは、『本源に還る』という意味です。
『岐(ちまた)』は、『分かれ道』のことです。
全体では、『私の中の生まれながらに備わっている本来の仏こころが動き出して、本源に還りたいとの思いを強く抱くようになった。しかし、どの道に進むべきか分からず、分かれ道を目の前にして何度泣いたことだろう。』といった意味になります。
強く望んでいる『本源に還る』こととは、本源的な秩序、迷いのない覚り澄ました世界に還っていくことであり、悟りを得ることと同義であるとされています(注2)。
この一節から、空海は、全ての人は、もともとこの覚醒した悟りの世界に帰属していたが、心の無明に惑わされて迷いの中にいる、と考えていたことが分かります。
空海は、無明により曇っていた心が晴れて、もともとの仏のこころが動き始めるきっかけになった強烈な経験をした、とされています。この強烈な神秘体験に関しては、次回取り上げたいと思います。
空海の中にある、もともとの仏のこころが空海に対して、澄んだ悟りの世界に還ろうと勧めるけれども、当の空海はその道が分からずに何度も泣いた、というのです。
もちろん、空海が本源へと還る道と考えたのは、今でいう密教です。
しかし、当時、我が国には、密教経典は入ってきていたものの、系統だって持ち込まれたものではありませんでした。さらに、密教という概念すらなかったともされています。
その状況の空海の思いたるや、どのようなものだったのでしょう。
その状況の空海の心情を察する一つのエピソードがあります。
空海が、後に唐から持ち帰った経典は、そのほぼ全てが当時の日本になかったものでした。(注3)
つまり、空海は、入唐前に日本にある経典とをほとんど把握していたことになります。
ちなみに、空海よりも前に中国から戻ってきた玄昉(げんぼう)が持ち帰った仏典だけでも5000巻を超えています。
皆さんなら、この事実から、空海の心情をどのように解釈しますか?
この事実を、多くの識者が、空海の偉大さに焦点を当てて論じているように感じます。
確かに、空海が日本にすでに伝来している経典を整理した上で、唐に渡られたことは、後の平安仏教の確立に寄与します。
しかし、それは結果であって、当の空海ご本人から見ると、その結果に至る地道な過程は、「道が分からずに、何度も泣いた」以外のなにものでもなかったのです。ちなみに、日本にあったあらゆる仏典を探し、整理し続けた日々は、少なくとも24歳から31歳の7年間以上であることを知ると、少しリアリティをもって捉えることができるように思います。
さらに空海は、「悲しい」という表現はよく用いていますが、「泣く」という表現は、ここでしか用いられていません。
となると、「悲しい」といった日頃用いる表現ではなく、「泣く」という全く使ってこなかった言葉でしか表現し得なかったお気持ちがあったと推察できます。
ここでの「泣く」という言葉は、私たちが日常用いる「泣く」ではなく、空海にとって格別に重い表現であることを忘れてはいけないのでしょう。
この「泣く」には、悟りを求める血を吐くような思いが込められているという識者もいます。
『性薫我を勧めて還源を思いとす。経路未だ知らず 岐に臨んで幾たびか泣く。』
空海は、この言葉にどのような思いを込め、私たちに何を伝えたかったのでしょうか。
この言葉に、人としての空海の苦悩を感じ、空海を身近に感じた方もおられるでしょう。
この言葉を、空海からの励ましの言葉と受け止める方もいらっしゃるかもしれません。
この言葉に秘められた歴史的事実を知って、空海の凄みを再認識された方もいらっしゃるかもしれません。
はたまた、密教受法に至る、血を吐くような過程に思いを馳せる方もいらっしゃるでしょう。
皆さんは、空海が遺したこの名言を、どのようにお感じになりましたか?
さて、次回は、空海の中にあった仏こころが動き始めるきっかけになった強烈な体験を、空海の名言とともに取り上げたいと思います。
副住職 樫本叡学
注1 読み方は、『定本弘法大師全集』に従っています。性薫(せいくん)、岐(みち)と読む場合もあります。
注2 羽毛田義人『空海密教』1999 春秋社
注3 空海は、仏典216部461巻持ち帰りましたが、一説には重複は4部であったとされています。